株式会社ジールの専門業者

バブルが終わり、内実のない企業の株は元の株価に戻ってしまい、技術力のある企業の株式時価総額も五億ドル下落した。 しかも、アメリカのような訴訟社会においては、「正義」であるか否かも、ビジネスを開始する前に決めることではなく、生まれた結果を元に、裁判を通じて判断することになる。
経営者はシノゴノ言っている閑があったら早く「仮の成功」を達成して、カネを手にしたほうが勝ちなのだ。 後は裁判所が「富の最大化」を根拠にして「正義」だったと宣言してくれるだろう(あるいは、司法取引で幕引きができるだろう)。

H大学のD・Mは「アメリカCEOの犯罪」(シュプリンガー・フェアラーク東京)において、E事件で氷山の一角が露呈した経営者たちの犯罪とその裁判に事実、Bは、Eは自社の利益のために行動したが、結果的にエネルギー市場の競争を促進したので経済的にはプラスだったと述べている。 HもMも「富の最大化」さえ実現していれば、正義の味方でいられる時代がくるのだ。
しかし、内実のない企業が社会に与えた損失は十億ドルだが、技術力のある企業の株式時価総額の伸びが十五億ドルであれば、結果的に「富」は五億ドル増加したことになるから、バブルを産んだ内実のない企業もその企業を審査せずに上場させた取引所も「正義」だったのである。 多くのアメリカ人は、法律は倫理に代わり得るものだという見解を受け入れ、そのことによって、相対主義の社会で倫理の基準を見つけ出すという難問は、解決されるものと考えている。
それは簡単に決めつけるのを好まない社会の一つの判断の仕方である。 しかし、倫理を法律だと定義しそれ以上のものではない、というのはどうなのだろうか。
ついて述べ、次のような疑問を投げかけている。 思考が金融化されていくとはいえ、こうした状況に憤りを感じるからといって、単にお金を憎んでも解決にはならない。
市場経済をののしって伝統社会の道徳をもちだしたからといって、金融がこの世から消えてしまうわけではない。 もちろん、その先には「法律に触れなければ何をしてもいい」とうそぶく経営者が雨後の筍のように現われ、「内規にないから問題ではない」と答弁する中央銀行総裁がふんぞりかえる社会が待っている。
経済が法律になり、法律が倫理になった社会では、違法ではないかと説明を求められても「正当なビジネスを批判されるのは違和感がある」と表明し、「お金儲け、悪いことですか」などといっていれば、うるさいマスコミも黙らせることができる。 いや、それどころかマスコミは、この種の発言に「よくやった」と拍手してくれるだろう。
理想化された金融のない純粋コミュニティを夢見るのは、理想化された金融市場経済を称賛するのと同じくらい愚かなことだ。 社会の原理と金融の原理は、実はすでに相互浸透してしまっており、私たちの思考の隅々にまで貨幣の論理は食い込んでいる。
いま問題なのは、金融の論理があまりにも優越してしまい、これまでの社会の論理を圧倒して人々の思考までも金融化しつつあるという現実だ。 私たちにそれこそ「違和感」をいだかせているのは、貨幣という物差しで計った「富」が「最大化」されることは「正義」であり「倫理」であるという倒錯が、いつの間にか常態化しつつあるということなのである。
しかしこの金融の論理は、実は、それ自身では貫徹できない。 シリコンバレー現象でもH現象でも、そこには必ず金融以外の材料、たとえば将来有望な技術や新しい市場を開くビジネス・モデルの創出が必要とされている。

それが本物かニセモノかはともかくとして、人間社会を豊かにすると仮構されたプロジェクトがなければならない。 「カネがカネを産む」とはいっても、カネが真空のなかで自己回転することはできないのだ。
この資金の回転についても原理的に考えてみよう。 カネを回転させるには、カネを回転させる仕組みと、その仕組みを守って維持する人間が必要だ。
仕組みを守って維持する人間は、根本的に出し抜くことが中心のマネーゲームからは生まれない。 そもそも銀行の最大の機能は、銀行が預金者から集めたお金を越える金額の資金を貸すことだが、それは「信用創造」と呼ばれてきた。
信用創造は銀行業界という一種のコミュニティの正常な維持が前提となっている。 必要なのは信頼(トラスト)だ。
こういう議論は、じつは経済史学者や社会史学者が得意とする分野だが、ここでは深入りはしない。 しかし、かなりの高い度合いで、契約による近代経済社会が成立する以前、契約を守るという「良き意思」を醸成したのは、経済システムそのものではなくて、伝統的コミュニティだったという説を支持する者が多いこともたしかなのである。
高度に発達した先進諸国の経済においても、実は、歴史的にこうした「守って維持する」人間が多く必要とされている。 彼らが生み出す「信頼(トラスト上が、複雑な商取引を円滑に進めるための前提となっている。
この信頼に注目して、先進諸国の経済を比較したのが、Fの「トラスト(信頼)」(邦訳は「「信」無くば立たず」三笠書房)だった。 彼は新しい著作のたびに思想的立場を変える傾向があるが、この本で論じたことは傾聴に値すると思う。

Fは経済学者Aの「組織の限界」(岩波書店)などを下地にして、信頼とは経済的資源のなかで最も重要だが、きわめて高くつくものであり、しかも性々にして無視されてきたことを繰り返し述べている。 しかも、貨幣の価値に傾斜した社会が次第に病理を示しはじめ、活力を失っていく現象は歴史上で何度も観察されてきた。
ヨーロッパにおいても、十九世紀末に活躍した社会哲学者Jは「貨幣の哲学」百水社)を書いて、貨幣が金融経済を加速すればするほど、人々はよそよそしい関係になっていくことを予言している。 Jは、社会の分業は貨幣経済の進展とともに広がるが、それにつれて貨幣自体が目的として感じられ、本来は目的であったはずの事物をたんなる手段に押し下げると述べている。
ありふれた例をあげれば、家族の生活を豊かにするためにお金を稼いで家屋を購入し、家具を調え、食糧を確保するが、そうした豊かさを実現してくれたお金が何よりも有難いと感じられるようになり、お金が目的化してしまうということだ。 さらには家にも帰らず自宅では暮らさなくなり、とうとう家族を捨てて金儲けに逼進するということはありがちだ。
またJは、この過程は信用取引が成立することによって加速され、目的に対する手段が優越するようになるが、それは人間の生のための「手段」が、人間の生の「支配者」となってしまうからだとも述べている。 つまり、金融の仕組みが発達すると、ますますお金が目的化してゆき、生活だけではなく社会の制度すらもお金を中心に作られていってしまうというわけだ。
その中で暮らす人びとは、お金と豊かな資産と複雑な制度を持っているが、いつも自分が自分自身の支配者でなく、誰かに支配されているような気持ちがつきまとい、他人との関係も間に何かが挟まっているような、よそよそしいものになるのである。 いま、アメリカを中心とする金融資本主義の暴走は留まるところを知らず、日本でもシリコンバレー型の「仮の成功」でボロ儲けをたくらむH主義が横行していることは否定すべくもない。

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